Souvenirs de la vie quotidienne
|
人生における喜びの捉え方や、世界の見え方が、他の人のそれとどうやら違うらしいと気付いたのは、幾つの時だったか。
その瞬間から、一人で生きる人生を自覚したように思う。
私が人生への思いを吐露する時、大体において「病んでいる」と評される。
正常な人間から見たら、どうやら私は常に“病んでいる”らしい。
先日も、仕事終わりに一人で海に行き、少し浮かんだ後に、大きな岩の上に寝そべって、空を飛ぶ鳥や、ヘリコプターや、打ち寄せる波を見ていた。
目を閉じたら、背中の下の動くはずのない大きな岩ごと、ゆらゆら揺れている気がした。
海に、あやされているようで、嬉しくて思わず笑ってしまった。
こんな一連の事を誰もいない山奥で一人でしているのだから、傍から見たら確かにちょっとおかしい人なのかもしれない。もしくは「寂しい人」だと言われるか。とにかく「危ない女だから近付かないようにしよう」と思われるのは、避けられないだろう。
それでも、私が感じる私の世界では、そんなことくらい、病んでもいないし、危なくもないし、寂しくもない。
ただそれを同じように感じられる相手がいないだけ。
その事実だけは、いつも少し寂しい。
世界を共有できる相手がいない、というのは寂しいことだ。
それでも、世界とは繋がって生きていける。
毎朝、リコを連れて水源池の除塵機を回しに行く。
スイッチを入れると、大きな音を立てて歯車が回り、滑車を動かし、ベルトコンベアが汲み上げた落ち葉やゴミなんかを運んでいく。
恋心にまつわる感情も、こんな風にスイッチ一つで綺麗さっぱり流してしまえたらいいのに、と時々思う。
実際には、何とも名前の付けられない細かな感情や、泥やへどろのようなモヤモヤした汚いものが、次から次に溜まっていって、水を澱ませてしまう。あんなに綺麗に流れていたのに。
私は、私の透き通った水を取り戻したくて、無駄な悪足掻きばかりするはめになる。
恋とは、罪悪だろうか。
かつて、とても愛した彼は、勇気とユーモアがあって、優しさも厳しさも平等にあり、よく食べ、よく笑う、本当に素敵な人だったけれど、愛することと愛されることにおいて、とても臆病な人だった。
ある一定の距離まで気持ちが近づくと、途端にものすごく冷たくなり、それ以上自分の領域に踏み込ませない、そんな付き合い方を繰り返していた。
彼の恐怖はよく分かったし、何よりその向こう側に行きたくて、話をしたり、喧嘩したり、泣いたり、寄り添ったり、色々してみたけれど、結局私たちも別れてしまった。
今はまた別の彼女がいるらしい彼は、もう怖がらずに愛情を与えたり、受け取ったり、できるようになったのだろうか。
今はまた別の人を好きになった私も、結局のところは臆病な彼と同じで、気持ちを受け取ってはくれないであろう人ばかりを選んで、好きになっている気がする。
誰とも寄り添わない人生を、寂しいと思えないことこそが寂しいのなら、
どこにもたどりつけない思いを抱えたままで、世界の美しさを見ていたい。
どうか、そのことを許してもらえますよう。
台風で、一日中外に行けず時間を持て余し、また漫画を読んでしまった。「おひとり様物語」
ああ、分かります。分かります。画面の向こうから「またかよ!」ってツッコミが聞こえます。
そうね、私最近その手の話ばっかり読んでる。
共感したい。安心したい。
今のままでも、大丈夫なんだって自分に言い聞かせたい。
これはね〜、同じように感じる人すっごく少ないかもしれないから、あまり言えなかったことだけど。
35歳を超えて「おひとり様」で、やりたい仕事をやっていて、一人の自由さ・身軽さも大好きで、好きなものに囲まれて暮らしてる今の自分に不満があるわけじゃない。
恋愛したくないわけじゃないし、結婚は絶対しないって決めてるわけでもない。
まあ、単にモテないので一人でいることが多いですけど。
焦っているわけでも、絶望しているわけでも、振り切っているわけでもない。ただ浮遊しているような感じ。
肩肘を張っているつもりも、ないのです。
何かとめんどくさいことを突っ込まれた時は、不貞を働いた親のせいにしてみたり、子供を授かれない自分の体のせいにしてみたり、何となく「それらしい」ことを正直に答えたりする。嘘じゃないし、それも一つの真実だと思ってるけど、実は口で言うほどそのことを、重たく抱えているわけでも、ないのです。ごめんなさい。
それこそが、私の不安の種なのです。
私はきっと、周りの人ほどには人間関係に碇をおろせない。
人が好きだし、友人と家族は宝物だと思っているし、困っていたら力になりたい、嬉しいことがあったら一緒に笑いたい、そういう気持ちも全部まったく嘘じゃないけど、たぶん何かが決定的にずれている。
“みんな”を等しく愛していると、“誰か”の特別にはなれない。
それを体現しているような自分に、時々少し寂しくなるのです。
私は、二年前に何やかんやあって別れた外人の彼のことをまだ恋愛的に好きなままです。
人によっては「そんな意味のないこと続けて何になるの?」「次に好きな人が出来たら忘れられるから、とりあえずどんどん恋をしてみたら?」と、至極真っ当なアドバイスをくれますが、その言葉にもう〜ん?と思ってしまう自分がいて。
人を愛するのは素晴らしいことのはずなのに、それがきちんと“つがえる”相手でなければ、その愛は紛い物にされてしまっている気がする。考えすぎかもしれないし、揚げ足取りかもしれないけど。
いっそ同性が好きなのかな?と考えたこともある。
同性に恋愛的な意味で好意を持たれたこともある。
その時は、素直に嬉しかったし、出来得る限りこたえた。
けれど、私の方から同性に恋愛的若しくは性的な感情を抱いたことはなく、むしろ何だろう、母性に近いような気持ちだったと思う。
自分のことが分からなくて、自分に似たような女の人を描いた漫画や小説を読み漁るけど、大体が、やはり最終的には“愛”に繋がっていて、すごく寂しくなってしまうんだ。
その寂しさは「私にはどうして特別な“誰か”がいないんだろう」かもしれないし、「やっぱり“愛”って切ないなぁ」かもしれないけど、たぶん、きっと語る先のない孤独かもしれない。
仲間がいない寂しさ。
どうしてみんな最終的には“愛”に落ち着いてしまうのか。
それを持っていなくて、なくても何とかなってしまう自分がやはり異端なのか。私こそが「さびしい人間」なのか。
抱きしめてくれる手や、寄りかかっていい背中が欲しくないわけじゃない。
一生懸命ひたむきに生きる、熱くて小さな手のひらを、傍で見守っていたいと思うこともある。
でもたぶん、なくても何とかなってしまうし、なくても「幸せ」だと思えてしまう。たった一人で生きているわけじゃないのだから、本当の孤独にはならない。
それでも、理解し合える仲間がいない寂しさはやってくるんだな。こうして、波のように。
Template by apple | Log in | RSS1.0 | Atom0.3 | |
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|