Souvenirs de la vie quotidienne
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モチベーションのふるさと

昔から聞かれることの一つに「そのモチベーションはどこから来るの?」というものがある。

例えば仕事をしていて。
気分が乗らない時は誰だってある。面倒だったり、疲れていたり。そんな時どうやってやる気を出しているのか。

例えばひどい失恋をして。
ちょっとここには書けないくらいの苦い経験を沢山してきた。たった一度だけ、人生を投げてしまおうとしたこともある。
それでもなお人を好きになり、傷付いても愛することをやめようとは思わない。どうやってどん底から這い出ることが出来るのか。


モチベーションのふるさと(在り処)は人それぞれだと思う。
自分の中でそれが作り出せる人もいれば、外的要因(相手や環境)を必要とする人もいる。

でも前者・後者どちらにしても共通して言えることは、「好きなものに身を浸すこと」だと思う。

すごく単純に言うならば、好きな音楽を聴く。好きな映画を観る。友人とおしゃべりする。思う存分食べる。お金を気にせず買い物をする・・・とにかく自分が好きなもの、好きなことの中に自分を置く。



私は言うなれば、自家発電タイプなのだ。
少ない燃料で自分を奮い立たせるエネルギーを、自分で作っていく。
一番は、自然からエネルギーをもらうこと。光の零れる緑の中とか、覿面に効く。



まあ、太陽がさんさん照っている日なんか、ただそれだけでニヤニヤ顏がほころぶくらいだから、相当な変態なだけかもしれないが。



まさにこんな状態(笑)


あと、本をよく読む人におすすめなのは、頭の中で、自分が主役の自伝小説を書きあげるか、インタビューに答えているところを想像すること。←「人生波瀾万丈」に出演しているつもりになったり、自分の好きな雑誌に特集が組まれたつもりで(笑)

これはけっこう効果あると思う。
何故ならば、何もない人生ほどつまらないものはないと思うから。
逆境であればあるほど、その経験談は輝く。

私の場合、「人生はすべてネタ」と思っているけれど、以前ネットで偶然見つけた、どこかのホステスさんの名刺には「死ぬこと以外かすり傷」と書いてあって、爆笑するとともに共感させて頂いたことがある。

そしてこの妄想(笑)で大事なのは、インタビューに答えている時は必ず、大成功(なり、小成功なり)しているからこそ答えていると思い込むこと。



実際、この4ヶ月のファーム仕事は失敗の連続でだいぶ凹みもしたけれど、頭の中で『そうですね・・・最初は失敗続きで正直しんどかったです。向いてないんじゃないかとか、やっぱり無理なのかとか色々考えました。でも信じることしか出来ませんから』などと架空のインタビューに答えながら、その都度自分を励ました(笑)

波瀾万丈あってこその人生だ!!(あくまでも私個人の見解ですが)



ありがたいことに、田舎の生活は私にエネルギーをくれるもので溢れている。
それでもなお凹んだり、疲れたり、泣くほど悲しくなったりする時もあるけど、好きなものに囲まれて暮らせる多幸感が、次の日もまた私を笑顔にしてくれるのだ。



私にとってのモチベーションのふるさとは、まちがいなくこの自然の中にある。
 
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手放すことで増えていくもの


『三十路過ぎての自分探し』と揶揄された、フランス一人旅の中で、気付いたことは沢山ある。
環境が変われば、常識も変わる。それはそれは目からウロコ体験を数えきれないほど経験したものだ。

その中でひとつ、自分の中で意外だった(というか、きっと認めたくなかった)発見。
それは、自分の、あるいは周りの誰かの「所有欲・独占欲」の強さだ。
そしてそれに付随する“シェア下手”とでも言うべき実態。


そもそも私のフランス旅の目的は、WWOOFという制度を利用した、農業ボランティアでした。
(このブログでも再三「フランスに行って来ました」という事実は書いていましたが、その理由や目的はそう言えば書いていなかったことに今更ながら気付く・・・まあ、ここを読んでる程の人は大体FBで知ってはいると思いますが)

ちょっと脱線して説明すると、
WWOOF(Willing Workers On Organic Farms)というのは、農業体験・ボランティアをしたい人と、働き手が欲しい農家さんを繋いでくれるサイトのようなものです。世界に多数あって(日本にもあります)、ボランティア希望の人(ウーファー)が働きたい国のWWOOFサイトで入会金等を払い登録すると、その国の登録有機農家さん(ホスト)を閲覧できる仕組みになってます。(ちなみに滞在希望の交渉等はすべて自分で行います。)
ウーファーは労働力を、ホストは食べ物と寝る場所を互いに提供・交換し、金銭のやり取りは一切しない仕組みなので、長期滞在になっても、生活必需品以外の滞在費をかなり抑えることが出来ますし、何より多様な有機農業経験を得ることが出来ます。

私はこれを利用して、2013年の3ヶ月間をヴィッテルのエコビレッジ、ボルドーの有機野菜農家、ノルマンディーの乳牛農家に滞在し、さらに今年の2月から再び3ヶ月間、ノルマンディーの乳牛農家で滞在、ボランティアをしてきたのです。

------脱線終了------


そう、このWWOOFを利用している農家というのは、大体において同時に2人以上のボランティアが滞在することが常なのだ。
すなわち、共同生活。時には住人も含め、30人を超える大所帯での共同生活ということになる。(私の場合、エコビレッジなどがそうだった)



お気付きのように、共同生活の基本は“シェア”である。
食べるものから、トイレ・浴室・キッチン等の生活空間、そして仕事もみんなでシェアして生活していく。

私は、自分ではこの“みんなでシェアする”という行為に抵抗はない方だと思っていた。
けっこうどんな環境でも順応できるし、こだわりなくできるだろう、と。

だけど、長く生活を続けていくうちに、自分の隠されていた所有欲や独占欲に気付いた。
“自分のもの”という概念に気が付いたのだ。
自分がお金を出して買った物を他の人が大量に消費しているのを見ると、モヤっとしてしまったり、自分だけの空間・道具が欲しくなったり。

そしてそれは私だけでなく、周りのボランティア、住人達も同じようだった。
人それぞれ、こだわるポイントは違うのだが、特にお金が絡むものは難しい傾向にあった。


私の場合は、物というより「仕事」と「空間」をシェアするのが特に苦手だと気付いた。
これはもう単に根暗の人見知りだから、というものもあるのだが(苦笑)、「仕事」の場合“一人でやり遂げる”ことにこだわってしまう癖がなかなか抜けなかった。人の手を借りずに成し遂げたいという・・・ある意味での独占欲、そしてシェア下手。

「空間」に関しては、どうしても一緒にいる相手のことが気になってしまい、“私があまり話さない(話せない)からつまらないんじゃないか”とか、“不快な思いをさせないようにする為にはどうすればいいだろう”とか、勝手につまらないことをごちゃごちゃ考えては気詰りになってしまっていた。これは所有欲や独占欲とは関係ないけれど、まあシェア下手である。


そうして日々浮き彫りになってきた自分の弱点を、認めたくないような気持ちに気付いた時、これらをきちんと手放そうと思った。




物に対する所有欲や独占欲は、比較的楽に手放せたのだけど、「シェア下手」克服はとても時間がかかった。
今でも、完全克服とは言えないかもしれないが、以前に比べると格段に楽になった。
どういうことかと言うと、少しだけ無責任に考えられるようになったのだ(笑)

つまり、今まで勝手に一人で背負いこんでいた責任感を、誰かに少しシェアすることを覚えたのだ。
同時に、何でもかんでも自分のせいにしてしまっていた悪い癖を、私は手放すことに成功した。

自分の食べ物をシェアすることで、相手もまた自分のものを分けてくれた。
生活場所をシェアすることで、家族のような親しみを覚えた。
仕事をシェアすることで、達成後の喜びを分かち合えた。
空間をシェアすることで、自分の内面をさらけだし、心を自由にすることができた。


教えてくれたのは、一緒に共同生活をしていた仲間たち。
一般的な日本人と比べると、彼らは驚くほど自由な精神の持ち主で、いい意味で我が強い。(時々悪い意味にもなるけど)
根本的な価値観が違うことで、ぶつかって大ゲンカしたりもしたけれど、それがかえって私の心をオープンにしてくれた気がする。



すべてをオープンシェアすることは、実はすごく難しいことなんだと思う。
でも、分け与えることで増えるものは、思っていたよりも多いのだと知った。
 
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すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!

「農家には365日休みなんてないんだよ」という台詞を昔からよく聞いた。
もちろんそれはそうなんだけど、『毎日仕事で休みなんてない』と思うと、たとえそれが好きなことであっても気が滅入りそうだから、繁忙期以外は、一週間に一度は必ずお休みの日をつくることにしている。(動物の飼育や畑の見回り等、必要最低限のことはもちろんやるとして)

まあ、私の中では“仕事”と“生きること”と“しあわせ”をイコールで繋ぐのが理想なので、そう思えるに越したことはないんだけども、それはここではおいておく。


前置きが長くなったけども、そんなわけで今日はお休みの日だ!ということで、せっかくの休暇を使って里帰りしたにも関わらず、一週間ずっと働きづめだった我が弟のリクエストを伺い、山に登ってきました!私は今年三回目!!


弟は、物心ついてからの御岳登山は初ということで、まずは普通の登山道から登ることに。
登山道入り口にはこんな看板が。

私「20分じゃ絶対着けない・・・」
弟「つか、横の道、魔界へ誘う雰囲気だけど・・・」

こんな会話をしながら登山スタート!


竹の葉の降り積もった、古い登山階段を一歩一歩登っていきます。
所々地滑りによってもはや階段じゃないところも・・・。



200メートル地点に忽然と現れる、手作り看板。「うしろをみて」とあるので、振り向く。



・・・と、あいにく雲で何も見えない。
晴れていれば、山裾に広がる集落や海が見えるんだが。


その後も100メートルごとに手作り看板が立っていて、くじけそうな心を励ましてくれる。



おお、何と達筆な「あとはんぶん」だろう。
しかし「あとはんぶん」と言っているきみこそが真っ二つだが、大丈夫か?



しかしこの半分を超えると、視界を遮る竹もなくなり、一気に解放感が押し寄せる。





学校の先生が描いたらしい、かわいい鳥の看板が見えたら、頂上はもうすぐそこ。



ちょうど今はマルバツツジの季節。ピンク色の可憐な花があちこちで咲き誇っていた。





頂上を目指すクニさん(父)の背中。遠い!





ようやく頂上へ!
この御岳(トカラ富士)の高さは、あの有名なエンジェルフォールの滝の落差と、ぴったり一緒なんだとか。




火口も一望!




そして反対側には、雲の隙間から海が。


頂上まで登って終わり、じゃないのが御岳登山。
尾根をぐるっと回って、火口に下りることに。



うす雲も晴れて、夏らしい青空。



美しい・・・けど、暑い!!
すでにパーカーの中は滝のような汗が。



それでも、山の上からのこの眺めはやはり格別。
海の向こうに見えるのは、トカラの玄関口、口之島。





まるで死んだ貝の化石のような、カサカサしてかなり崩れやすい石に足を取られながら、何とか火口に下りる。




今日のガスは一段と活発だったわ。
(天候や状況によっては、火口に下りられない日もあります。ご注意ください)


そして、おもむろに温度計を取り出す我々・・・。



このボコボコいってる源泉は95度近く!とてもじゃないが、温泉には出来ない。





そう。今回は何と、卵持参!(笑)
火口の温泉と噴射口で、温泉玉子と半熟ゆで卵を作ろうという試みだ。

とりあえず、手頃そうな源泉(75度前後)に、まず3つの卵を7分間入れてみる。こちらは温泉玉子用。





そして、ガスの噴射口にも、卵3つと濡れタオルを竹ざるに乗せて、15分吊るしてみる。こっちはゆで卵(蒸し卵?)用だ。





出来上がりを待つ間に、「地獄の窯」と呼ばれる(たぶん父が勝手に呼んでるだけだが)一番お湯がボコボコしている場所を見てみた。
本当に地獄みたいな風景だった。さすがにあそこに落ちたらひとたまりもないだろうな。


そうこうしている間に卵も出来上がり、帰りは父の開拓した新ルート(別名、獣道ルート)で山を下りる。
何故ならば、私達は3人とも喉が渇いていて、とてもじゃないが、その場で卵を食べる気になれなかったのである(笑)口の中の水分全部持ってかれそうだったんだもん。


合計2時間半ほどのゆっくり登山。
大いに満喫し、帰宅してカレーと共に食した玉子たちは、美味しかったです。(残念ながら蒸し卵は半熟じゃなく、固ゆでになってたけども)

そして夕食を終え、私がお風呂から戻った19時半、仕事をするよりも疲れ果てたのか、父も弟も既に爆睡(笑)

いやはや、楽しいお休みの日になりました。(ちなみに今日のタイトルは、ムーミンママの名言です。私にぴったり!)明日からまた働くぞ〜!


 
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怒涛の新生活は嵐にも似て

こっちのブログはだいぶお久しぶりになってしまいました。
基本、何かをやり始めたら、その前にやっていた何かが抜け落ちる、ロケットペン構造の人間なもんで、すみません(´ω`;A)あ、今の若い子はロケットペンすら知らないのかしら??

前回まで書いていた『命をいただくということ』の完結編もあげたいのですが、いかんせん、英訳に手間取るもんで、後回しに・・・。フランス旅行記も忘れないうちにあげたいんだけど・・・武将で不精ですまん・・・。orz


さて、フェイスブックの方で散々言っているので、もうご存知のことと思われますが、とうとう“たった一人のエコファーム”を故郷の島にて始めました!!

草ぼうぼうの荒地を開墾して畑にしたり、廃墟を全面改築して自宅にしたり、慣れないウェブサイト運営に四苦八苦したり、しております。特に最後のは本当に困った!C言語って何?ってとこから始まるからね。もうタグとかHTMLとかCSSとかくそくらえ!だからね。(嘘です。だいぶお世話になってます)

まあ、そんなファームにまつわるエトセトラはフェイスブックページ(https://www.facebook.com/eco.farm.windy)か、ファームブログ(http://efwindy.blog.fc2.com/)の方でも見てもらうことにして、相変わらずここでは個人的な呟きを、ぼそぼそ綴り続けますよ。


さて、何故そんな忙しい毎日のはずの午前中に、こんな悠長にブログなんて綴ってるのかと言いますと、三日ほど前から台風のような暴風雨が島に上陸中なのです。
多少の雨でも構わずに仕事をするのが農家の真髄ですが、これは「多少」なんてもんじゃない・・・もしも私の体重があと30キロ軽かったら、余裕で吹き飛ばされる程度の暴風雨です。それはもう、別人だと自分でも思いますが。

どのみち、雨が降っていると、苗を植える準備の為の土おこしが出来ません。
ゆえに、毎日のヤギの世話とビニールハウス内での育苗作業以外は、屋内での事務作業になってしまうのです。
弟には「雨が降ったら仕事行かねえとか、カメハメハ大王みてーな生活だな」と言われましたが、当たらずとも遠からずかもしれません。


とは言え、『雨が降ったらお休みだ!』と、ずっと遊んでるわけにもいかないので、畜舎の設計図引いたり、件のウェブページ制作したりしながら、新生活の基盤を整えるべく、カーテン縫ったり、


クッションカバー縫ったり、


してました。これが結構はまって、無駄に増えていく布アイテム・・・。時々欲しくなる単調作業。
現在は、ヤギの畜舎の周りに付ける、カラス除けの為のトライアングル・ガーランドを作成中です。ま、明日には天気も回復するみたいなんで、そうなったらまた満面の笑みで土と戯れてることでしょうが。



 
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「命をいただく」ということ 2 / To “get a life” 2
※前回からの続きです(前回を読んでいなくても特に支障はありませんが)

※This is a continuation from the previous sentence.



フランスに来る少し前、日本でとある女性が自分で狩りをし、ウサギをとって捌いて食べたというブログ記事を読んだ。

Shortly before i come to France, i read a blog that a woman ate rabbit that hunted on herself.

若くて可愛い女性とウサギを捌く写真のミスマッチさからか、現代日本において売られているもの以外の肉を食べるという違和感からか、彼女のその記事には多くの批判・賛同コメントの両方が寄せられていた。

In that article of her, approval and criticism both comment had gathered.

私個人の所感としては、自分の身の丈にあったものだけを自分自身でとって食べ、頂いた命は皮も骨も全て大切に使いきりたいという、彼女の信念や行動理念にとても共感を覚えたし、こんな風に真っ向から命と向き合っている女性がいることを知って嬉しくなった。
(出来ればきちんとお話してみたいと思い、F.Bを通してメッセージを送ってみたけど、残念ながら返事が返ってくることはなかった・・・)

Impression as my personal is i was empathize her belief and action philosophy that “I want to eat only prey that can be dismantled with my hands”. And i was glad to know woman who are facing the life from the front.
(Because i thought i want to talk her, I sent a message to her through Facebook but, didn't reply is returned unfortunately...)


ともあれ、私個人は強く共感したこの記事だけど、寄せられたコメントの中には「ウサギの代わりにあなたが死ねばいいのに」というような過激な批難もあって、そちらの方に強くショックを受けてしまった。
いくらウサギが可哀想という気持ちから出た言葉であっても、とても、命に尊厳を持っている人の言葉とは思えない。

Anyway, this article that i personally felt sympathy strongly but, some comment was extreme criticism that “I think you should die instead of rabbit”. these words gave a big shock to me.
I couldn't believe that the people who has a dignity to life said these words.

確かに、現代日本に生きている私達は、自分で狩りをしてウサギを捌いた経験がある人なんて滅多にいないだろう。今やウサギは愛玩動物として飼ってる人も多い。
もちろん私もウサギは好きだし、もしも誰かに食べるためにウサギを捌けと言われても、きっと私は手が震えて出来ないだろう。

でもだからと言って、尊厳を持って動物の命を頂いている人々を否定していいわけではない。

Actually, we who live in modern Japan will don't have experience that hunt and dismantle. There is people who are breeding rabbit as companion animals often now.
Of course i also like rabbit. If someone say to me “You should dismantle rabbit for eating” but, probably i can't.

However nevertheless, it's not good to deny people who have gotten the life of animals with dignity.


昔から、「命をいただく」というのは、とてもセンシティブなテーマとして扱われている。
文化や風習、そこに人の感情等も入ってくるとその善悪はまさに千差万別である。

To “get a life” is very sensitive theme from long time ago.
By the customs and culture, and feelings of people, good and evil becomes infinite variety.

例えばここフランスでは今でも普通にウサギ狩りが行われているし、中国の一部では犬を食べるという。

自分にとっての正義は誰かにとっての悪であるかもしれない。
いうなれば、明確な答えなど存在しないのだ。

For example, here in France, the people still hant a rabbit. And, some Chinese eating a dog.

The justice for me, might be evil for someone.
As it were, a clear answer does not exist.
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「命をいただく」ということ / To “get a life ”
今回、このテーマを書くにあたって、拙いながらも同時に英訳も試みたところ、とんでもなく長い文章になってしまった為、短いセンテンスに区切って少しずつ小出しにしていこうと思います。

When i write a this theme, try to be translated into English at the same time while clumsy.
I will continue to separated in sentence of little by little because it was a long sentence ridiculously!


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昨夜は、一日遅れのバレンタインパーティーということで、張り切って一日がかりで料理をしていました。

Yesterday I was cooking all day because last night was special valentine party.

前回も作って好評だった握り寿司と、今回は新たに焼き鳥を準備。

I made SUSHI that was popular also i made at the last time. further this time, i was prepared YAKITORI anew.

朝市でオーガニックの鶏を丸々一羽買ってきて、自分で解体したのだけど、パーツに分けられてパックされた肉を扱うよりもずっと「命をいただいている」ということを実感する。

We bought a organic chicken by Marché, then i dismantled chicken myself but, I realize “I have gotten a life” more than to cook the meat that is the packing, divided into parts.

鶏の首を落とす時、骨から肉を削ぐ時、生きていた鶏のことを思って、厳粛な気持ちになった。

When i cut out the chicken's neck, or When i dampen the meat from the born, i will be solemn feeling at the thought of chicken that was alive.

そして、ここフランスに来てからも、私は毎食ごとに「いただきます」「ごちそうさま」を心を込めて言い続けている。

And, even after coming to here, France, I have continued to say “ITADAKIMASU ” and “GOCHISOUSAMA ” with my all heart to each meal.
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島に暮らすということ


渡仏直前のこの時期、本当は帰省する予定なんてまったく念頭になかった。

きっかけは、Facebookを通じて繋がった、一人の女の子。

有機農業と持続可能な生活に関心があり、島への移住を考えているという。
そんな彼女がたまたま知って興味を持ったのが、私の故郷であるトカラだった。

去年末に一度一緒に食事をし、初対面とは思えないほど意気投合して、週末だけでも構わないから一度トカラに行ってみたいという彼女の熱意に打たれ、今回の案内役を引き受けるに至った。


彼女とは約8時間にわたる船の長旅も、二泊三日の滞在中も、I・Uターン者として島に住むということ、島の現在の印象や農業を通じた今後の可能性なんかを熱心に話し合った。

島に暮らすということは、一筋縄ではない。
元々住んでいる方々との関係、利便性の欠如、物資や人材の不足・・・
私の故郷でもそれは例に漏れず、さらに度々繰り返される参入と離島が、加えて人間関係の希薄さを生んでいる。
よくある田舎移住特集なんかで言われる「人があったかい」「地域の繋がりが素晴らしい」という言葉は、今の私の故郷では感じにくいのが現状だ。

それは何も、住民の方々が冷たい人間というわけではない。
せっかくIターンで新しい人が入って来ても、様々な理由から定着出来ず、2・3年ですぐに出ていってしまう。参入者に対して心を砕き、自分の身内のように接してきた島民達は、その事実に本当にがっくりきてしまう。そんなことが何度も繰り返され、次第に島民達も新しい参入者に対して警戒心を抱くようになってしまったのだという。
お互いに興味や関心はあるものの、今一歩踏み込めない。
結果、Iターン者はIターン者だけで集まり、島民は島民で遠目にそれを見遣るような、現在の形が生まれてしまった。


今回幸いに、双方の立場の人間の話を聞くことができ、お互いにいがみ合っているわけではないことが分かり、ホッとした反面、ではどうすればいいのだろうと思うと、明確な答えはまだ得られないままだ。


私が故郷にエコビレッジを創りたいと思った根底には、やはり単純に自分の故郷が好きだからという気持ちが強い。
いい思い出だけではないにしろ、豊かな自然環境と、そこに住む人々が作る空気を思うと、このまま廃村にしてしまうのはあまりに勿体無い。
環境を損なわず、かつ昔のように人々が活気に満ちた暮らしを出来るきっかけを何か作りたかった。
その私の理想の形が、エコビレッジだった。


『みんな仲良く』とか『地域一丸となって』というのとは、少し違う。あくまでも私個人の理想であって、それを島民の方々に押し付ける気はない。
ただ、そんな自分の生きていく姿を、見守って受け入れてもらえれば、そこから変わっていくことも何か、あるかもしれない。



今回の滞在で特に嬉しかったのは、父の昔からの友人に、「この子はすごいよ。アンタならどこに行ってもやっていけるよ」と言って頂けた事だった。
父は懇意にしていたけれど、私自身は今まであまり話したこともなく、接点もなかったので驚いた。

Uターン者として帰ってくるという私に、この島で何がやりたいかを問われ、それに答えての事だった。

もう何十年もの間、物資も情報も頼りない離島で生きてきた父や、島民の方々から見たら、私のような小娘(もう娘という歳ではないにしても・・・)が抱く理想なんて、本当に夢物語で笑っちゃうようなものだろう。
それでも、嬉々として夢を語る私の言葉に耳を傾け、“どこまで出来るか分からないけど、応援してやろう”という気持ちを持って下さり、
「こういう若い子が島に住んでやろうってんなら、俺たちももちっと頑張ってやろうって気になるね」と言って下さった。

それが本当に嬉しく、有難いことだった。


この事を受けて、もしもこれから何かを成そうと思うなら、たとえ未完成で青臭くても、まずやるべきことは、“声を上げること”なんだと感じた。
そうやって、夢や理想を語ることも、若者の役目なのではないだろうか。
それに呼応して、熟練者である人生の先輩たちが、再び熱意を燃やすきっかけになるのだとしたら、青臭い理想だって捨てたものではない。


人は、人、他者と反応し合って生きている。
離島の山の中に暮らしていたってそれは変わらない。

それは「私はこういう者です」と顕にすることから始まる気がした。

笑われること、否定されることを怯えず、意固地にならず、言葉や気持ちを尽くすこと。
自分を知ってもらい、相手を知ること。
そうして交わされる時間で、人との繋がりや関係性が出来ていく。

そうは言っても、
「悪い人じゃないのは分かるんだけど、どうも気が合わない」とか
「特に理由はないんだけど、話してると何でか苛々するんだよね」という相手は誰にだっているだろう。

そういう相手を攻撃したり、拒否したりするのではなく、
「まあ、そういう人もいるわな」と受け入れること。或いは、受け流すこと。

肝要なのは、同じ理想を抱くことや正しいと思える方向へ首をそろえることではなく、許容する鷹揚さを持つことではないだろうか。


生物学の世界に『生物多様性』という言葉がある。

異なる属性、性質を持つ種々様々な生物が複雑に混在し、影響し合いながら作られているこの世界を「だからこそ美しく、面白い」と言える心持であること。
そんな一種ののんきさが、島で暮らす上で今、一番必要なものなのかもしれない。
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田舎の生活と女子的欲求


先日、フランスのビザ申請の為に東京を訪れた際、生まれて初めて(?)“表参道を歩く”ということをしてきました。
目的は表参道にあるとあるカフェのパンケーキを食べに行こう!という事だったのですが、姉夫婦と5ヶ月の甥っ子と一緒にようやく辿り着いたそのカフェは人がぎっしりで、『1時間先まで予約で埋まっているので、1時間経ってからもう一度来て並び直して下さい』ということでした。
けっこう歩いて疲れていたのと、甥っ子のベビーカーや荷物も多いから、1時間くらい店の外のスペースで待っていようかと相談していたら、それはダメとのこと・・・何でやとしょんぼりする私たちの後からも、ひっきりなしにやって来ては戻っていく女性達・・・。

少し前にパンケーキがブームになってから、けっこうどこのカフェでもパンケーキを目にするようになったけど、ここまでとは恐れ入った。よほど美味しいのか、火付け役である名店だからなのか、はたまた“表参道”という土地柄か。

こういう時、“女子的欲求”の凄さを思い知るね。

たとえばコーヒー1杯飲むにしても、よほど味にこだわりがあるのではなく、ただ「コーヒーを飲みたい」だけであれば、家で飲むか、その辺の缶コーヒーを買って飲んでもいいわけである。
よっぽど手っ取り早いし、経済的だ。
それでも、わざわざ一杯600円程のお金を出してまでも、時には長い行列に並んでまでも、お洒落なカフェを選ぶのは、ただコーヒーを飲みたいわけではなく、そのカフェでコーヒーを飲むという付加価値を楽しみたいからなのだろう。(もちろん味がいいということは大前提の上で)

私は心理学者ではないので、専門的なことではなく全くの主観なのだけど、こういう「物」や「雰囲気」に対する欲求・執着みたいなのは圧倒的に女性の方が強い気がする。

うまく口では説明できないけれど、『何だか素敵』なものに対する欲求、それを求める自分でいたいという気持ち・・・私はこれを勝手に“素敵欲求”と呼んでいる。

そう、100円でコーヒーは飲めるけど、どうせならオシャレなコーヒーが欲しいんです。素敵な空間にいたいんです。
全くの見当違いだったらすみません。でも少なくとも私はそうだ。

もちろん毎回そう思うわけではないし、様々な事情(大抵は経済的理由)から、そう思っても出来ない時だってあるけど、時々無性に襲ってくるこの“素敵欲求”。
まあ、要するに自己満足なんだけども、ひも解いてみるとそれは、自分にとって心地のいい場所を求めていたり、心が回復するような「何か」を欲しがっているってことなのね。


私の場合は、並んでまで手に入れたいって場合はほとんどないけど、色々なものにおいて五感を満たすことはすごく重要な気がする。

そしてそれはなにも、市販品や外の世界にしかないわけではなくて、
たとえば自炊する場合であっても、なるべく美しく盛り付けたり、材料にこだわったり、過程を楽しむことで“素敵欲求”は満たすことができると思うのです。


ここでタイトルの『田舎の生活と女子的欲求』になるわけだけど

件の表参道の帰り道、姉に「よりちゃん(私の事)はこれから先、島に住んだとして、オシャレなカフェに行きたいとか街に出たいとかそんな風には思わないの?」と尋ねられましたが、「もちろん思うし、行くと思うよ」と答えました。
まあ、私が住むことになる島はだいぶ過疎地なので、島の中にはそんなオシャレなカフェも街も店もありません。
が、船に乗って街に遊びに行くことも出来るし、何より島の中でも“素敵欲求”を満たしていくことはある程度可能だと考えています。

その辺の程度は人それぞれの匙加減だとは思いますが、田舎だから、島だからと言って素敵な生活を諦める気なんて毛頭ないですよ。
ないものは作ればいいし、作れないものはネットで買えばいい。
何よりそういうもののいちいちをFBやこうしたブログで発信していけば、反応も得られるしやりがいもあるってもんだ。
そう、“素敵欲求”には「反応が欲しい」というものも含まれている気がするのです。


過疎地の島暮らしで目指す私の素敵生活は、土と石を組んで家を造り、有機農法で作った野菜やハーブと、自分で育てたヤギのミルクで料理を作り、山葡萄から葡萄酒を作り、石釜だって自分で造ってパンやピザを焼く・・・。
クリスマスには大きなツリーを山から採って来て飾り、ドレスコードを決めて友達呼んでパーティーをして、お土産に自家製のコンフィチュールとスコーンを持たせたり・・・。

小さなころから『大草原の小さな家』(海外ホームドラマ)が憧れの理想像だった私には、この上ない素敵生活。


あ、もちろん、どうしても劇場で映画が観たくなったり、一人飲み歩きがしたくなったら、船に乗って街まで出るけどね(笑)
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アヒルの誇り

なぜかふと思い立って、昔mixiで書いた日記を読み返してみた。(以前は定期的に読み返していたもんだが)
(私の中で)mixiが一番活性化していた頃はさすが、日記の更新頻度も高く、まー日々よくそんなに言葉が出てくるなってくらい書き散らかしていた。
こう言うとすごいナルシストみたいで何だかなあではあるけど、私は自分の書いた日記を読むのが好きだ。
その時その時の感情がわりとストレートに書かれているので、読み返していると当時のことが蘇って面白いのだ。

にっちもさっちもいかない恋愛をしている時の、重苦しく切ない気持ちも、
仕事の理想と現実のジレンマに悩んでいる時の、模索し、もがいている心情も、
日常の何気ない幸福に浸って、静かに溢れだす喜びも、
自分の中の哲学や理想を、何とか言葉にしようとしている様も、

自分自身の言葉で書かれている故に、ひとたび読めばすぐにその時の気持ちや状況とリンクして思い出せる。まさに“記憶の記録”であり、自分史である。
内容のテーマは似たり寄ったりだけど、価値観や考え方はやはりだいぶ昔から今まで“ブレない”ものだ。こりゃこの先もきっと変わらないな。

特に恋愛観・結婚観、仕事に対する捉え方、人生で起こりうるトラブルへの精神的対処法なんかmixiを始めた2006年から見ても全然変わらない。
逆に一番大きく変わったなと思うのは、自己評価・・というか、自分に対する気持ちかなー。

2006年の日記の一部に、以下のようなものがあった。

『 私は今までの25年間「疑うくらいなら信じて裏切られた方がマシ」と思って生きてきた。なぜかと聞かれたら、それはもう、本当に性格だからとしか言いようがない。
けれども、そういう生き方は確かに、時としてとても仇になる。信じて裏切られたりなんて、はっきり言って日常茶飯事だ。
周囲の人間から見れば、何て馬鹿なんだろうと思うだろう。

実際、母親にとても叱られ(?)た。
あんたは全く成長しない。学習しない。信じて裏切られて失敗ばっかりして、周りの人間に迷惑をかけている。あんたを見ていると腹が立つ、と。

正直、この母親の言葉が何よりもショックだった。
母は「あんたはそういう自分の性格が好きなんだろうから、誰が何を言っても変えないのだろう」と言ったけれど、そうじゃない。好きとか嫌いとかじゃなく、私にはそれしかできないんだ。そうすることでしか、生きられないんだ。  』


お母さん、何てこと言うんだ(苦笑)忘れていたので、読み返してびっくりした(笑)

実際、こういう気持ちになって悩むことはこの後も何度だってあった。でも32歳になった今だって、やっぱり私はそういう風にしか生きられない。

でも今は、そんな自分をダメだとか出来損ないだとか卑下したりしないでいられる。
この先も私の生き方はきっと変わらない。ある意味、開き直ったのだ。
前回の日記に書いた『十二国記』の言葉に救われたように、私は自分が自分であることを、許すことにしたから。


『 善でも悪でも、それが全てではないと知っているから、自分の見える部分だけでも、信じたいと思ってしまう。
それで結果的にどんなに馬鹿をみても、裏切られて泣くことになっても、自分で選んだのだから仕方ないと思うんだ。

そういう私のスタンスは、本当にいつも理解されない。怒られたり、呆れられたりすることはあっても、理解されたり認められたりすることはほとんどない。もっと見る目を持てだの、疑う事を覚えろだの、散々に説教されるのがオチだ。
それでも、たとえ何度裏切られても、信じたことを後悔はしないのだから、母の言う「自分の性格が好きだから」というのは、ある意味ではそうなのかもしれない。  』

この考え方も、やっぱり今でも変わらないままだ。
ひとつ、分かったことは私は「自分の性格が好きだから」というより、つまるところ「人間が好き」なんだと思う。
そして同時に、そういう風に言えるようになった自分が好きなんだろう。

誰かに褒めてもらえたり、認めてもらえたり、好きになってもらえることを受け入れられるようになった。(以前は分不相応だと感じて、逆に萎縮していた)そして自分からもそれを堂々と発信することが出来るようになった。(以前は自分の好意なんて迷惑なんじゃないかと感じていた・・・卑屈!笑)

醜かろうがアヒルはアヒル。ただそれだけで、そこに必要以上の優劣なんてない。
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顏のない侵略者

さて、F.Bで少し呟きましたが、ここ数日風邪をひいていまして、高熱に浮かされながらまたも毒にも薬にもならない散文的思考に陥っていました。『人の悪意の根源と愚かさ、選民思想について』
まったくもってまとめられる気がしないのですが、散文よろしくとばかりに書き散らかしてみます。興味のある方だけお付き合いください。

まず、思考の発端になったものは、『サロメ』(戯曲。オスカー・ワイルド作)と、『純潔のマリア』(青年漫画。石川雅之作)と、『マギ』(少年漫画。大高忍作)、それから『十二国記』(ファンタジー小説。小野不由美著)でした。(・・・この時点でもうだいぶとっ散らかってる気がしますが、読み解いていくと、意外に共通点が多いんですよ)


まず、大前提の個人的見解として「立場が変われば正義は変わる」というものがあります。
これは現実だろうと創作物だろうと同じで、誰の目線に寄り添うかによって、主人公と敵は入れ替わるし、喜劇にも悲劇にもなります。
なので『何が善で何が悪か』という問題提起はここではないものとします。
今回言うところの『悪』は、“ヒトという生き物における絶対的悪意、攻撃性”について、です。

さて。
人が人を傷つける時、そこには明確な意思がある場合とない場合があります。
さらに、明確な意思がある場合、そこには「理由」が存在するはずです。
優位に立ちたい、屈服させたい、仕返ししたい、自分を守りたい・・・その理由はそれこそ立場によって様々でしょう。
人を貶めることで優越感に浸る人間もいれば、何かを守るためにやむなく攻撃に転じる人間もいます。
誰か一人を槍玉に挙げることで結束力を高めて、自分の位置を確認して安心したい人間もいます。

対して、意思のない攻撃・・・これは怠惰によるものと、私は考えます。

物語の中にはいつも、主人公側と敵(相手)側の他に、多くの第三者、エキストラが登場します。
ある国の民衆だったり、一つのクラスのクラスメイトだったり。
そして往々にしてこのエキストラ達は、意思のない攻撃を仕掛けるものです。
自分の頭で深く考えず、大衆に流され、自分の選択にもその結果にも責任を持たない。それは怠惰であり、愚かだと私は感じます。(この辺は『純潔のマリア』や『マギ』を読んでもらえれば感じるのでは)


では、人間が元々持つ残虐性、攻撃性については。
私は性善説者ではないので、ヒトには元々どうしようもない悪意、残虐性が備わっていると考えています。
人によって程度の差はあれど、破壊衝動や嗜虐衝動は皆が持ち合わせているものなのではないでしょうか。

けれども、生まれたばかりの赤ん坊や神話の神々がそうであるように、残虐性はしばしば無垢と結び付けられます。(小学生がアリの巣を壊したり、カエル爆弾を作るように、神話の神々は人の命を何の気負いもなく奪ったりします)
また、突き詰めた純粋さは、狂気を孕んでいることもしばしばです。(この辺は『サロメ』と符合します)

ここまで考えると大体「ではヒトに潜む悪意の正体って一体何なのだろう?」と途方に暮れます。
やはりこうして言葉におこしてみても、私にはその正体が掴めません。

不用意に人や何かを傷つけたくはないし、誰かの垂れ流した悪意に自分が傷付くことも少なくはないけれど、痛みに鈍感になって意思のないエキストラになるのはまっぴらごめんだ・・・結局これもまた答えの出ないもので、気を抜けばどん底になってしまいそうだけど、そんな時私はいつも『十二国記』の陽子と青猿の戦いを思い出します。

『―追い詰められて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。―中略― 人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。
「・・・そうじゃないだろう」
陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは、何の関係もないはずなのに―』


この言葉は今でも私の心臓にぶすりと深く突き刺さっています。
“傷付けられたから、傷付ける”一見正しく思える因果関係は、この言葉を知ってから私にとっては無になりました。

悪意を悪意で返さぬよう、多数決に惑わされぬよう・・・信じたいから、信じる。優しくしたいから、優しくする。自分の意思で、責任で。うーん、やっぱりうまくはまとめられませんが・・。


・・・あ!選民思想についてほとんど触れられなかった!(苦笑)
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